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初めてみる国際ジャーナルとの再会2008-12-18 Thu 11:39
いち時代の終幕
90年代の音楽シーンを担ってきたとも言っていい人が 詐欺容疑で逮捕されたというニュースがここのところ毎日流れている。 庶民である私は、毎日スーパーで190円のトマトにしようか 250円のトマトにしようかと迷いながらも、 当たり前のように190円のトマトをかごに入れる。 でも、早く250円のトマトが買える豊かさがほしいと 願っていても、たとえ多少の出生でお金が稼げたところで、 250円のトマトは私にはいつまで経っても買えないのだと思う。 おそらく私は、金銭的な豊かさをもっても、トマトの優先度を下げて いい車を買い、いい家を買い、遠くへ旅行に出かけてしまうのだと思う。 結局のところ、節約している箇所(=250円のトマトトマトを買うこと) が変わることは、宝くじの1等前後賞付で当たらない限りは 訪れることはなく、ずっと庶民でい続けるのだと思う。 それでも私は、ひろい家に住めるのなら、190円のトマトは いつまででもおいしく食べられる。なんなら100円のトマトでもいい。 渦中の音楽家も、トマトは250円を食べていたかもしれないが、 どこかで同じ節約をしていたのではないかと思う。 10億を稼げば、5億を必要とする事業をするだろうし、 1億円の買い物をいとも簡単にするだろう。 豊かさの度合いや感覚は違うが、全体の割合は 案外私達とそう変わらないのかもしれない。 一度頂上まで上り詰めてしまった人が、 次に目指すのは、更に高い山の頂上だ。 簡単に買える250円のトマトでは満足できない。 190円のトマトを美味しく食べるには、 250円のトマトを買えない生活をしなければいけない。 大きな山へ何度も何度もくじいて転びながら上ったのであれば 山の下へ戻る方法は一気に崖へ転落する以外はないのかもしれない。 ただ、もう深い崖の下を見たのだから、それ以上の下はもうない。 100円のトマトも190円のトマトも美味しくありがたくいただける。 美味しい250円のトマトを食べられる努力を知っているのだから、 後は上を見て、これまでの知恵を生かして素早く上ればいいのだ。 90年代はとっくに終わって2000年が既に始まっている。 2010年代、20年代が先には待っていてくれるのだから、 着実にそこに向かえばいいのだと思う。DVの被害の対策 今日のニュースでDV(ドメスティック・バイオレンス(ドメスティック・バイオレンス=配偶者間暴力)について、以下の記事があった ※以下抜粋 ----------- 1月に施行された改正DV防止法で、市町村の努力義務とされた「被害者支援の基本計画」を作成した自治体が、全国1782市町村で3市しかないことが内閣府の調査で分かった。同様に努力義務となった「配偶者暴力相談支援センター」設置も8市のみ… 以下省略 ----------- DVの現状がどれだけ認識されていないかということの表れのように思う。ニュースなんかでは、妊婦受け入れ拒否や、未検診、詐欺問題や殺害や強姦などが取り上げられ、死に至るような暴力でなければとりあげられないせいか、DVという言葉さえみんな知っているが、その実態や現状を全然把握していないのだなと改めて感じた。 私の周りでは、DV被害によって離婚を望んだが、それさえ言い合う場がもてないと命からがらといった形で(言い過ぎではない)子供を抱えて実家に逃げ隠れているような人が2人もいる。 何も悪いことをしてないのに、出かけるにも怯え、電話の着信音でもビックリするような生活を送っているのだ。 人目に付かないように行なわれるこよの多い家庭内の暴力を他人が防ぐことは非常に難しい。だからこそ、被害者支援の基本計画がたちあがったのだ。“立ち上がった”という事実は、既に深刻化しているからこそ起こることであることを、公的な機関で働くひとはもっと理解するべきではないだろうか。8月の国際ジャーナルの時事コラムで見つけた「学校裏サイト」の題。 私が高校生だった数年前は、まだ「裏サイト」なんて言葉はなかったが、 それでも、ケータイを駆使する人たちから見せてもらった。 自分の通っている学校の裏サイト。 主にBBSと呼ばれる書き込みページのみで作られているそのサイトを あえて傍から見てみると、知っている名前がいくつか出てくる。 いわゆる 人 気 者 の生徒の名前である。 発起人や発言者が誰かを分からなくするだけでなく、 誰かに偽ることができることを悪用することも可能な ツールだけに、その恐ろしさは無限である。 “誰でも知っているような人気者”でも、 誰かのひょんな一言で、“嫌われ者”にさえなってしまう。 ちょっとした一言が、許されなかったり、 ちょっとした行動で、取り返しが付かなくなったり、 間違えや失敗やうっかりが、認められないようだ。 誰も本質を見ていない(見なくなった)のかな。 嫌なことや楽しいことがあっても、 何も無かったかのように平凡に毎日を暮らせば、 誰かに何も言われずに平和に暮らせる、といった“間違い”を 皆で認めるのではなく、 嫌なことや楽しいことがあった時に、 それらを時に共有して見守って暮らすことで、 刺激ある人生や平和な毎日を送れる、といった“幸せ”を 当たり前にしていくべきだと思う。 放課後以降の時間に、ケータイだけみてるほどもったいないことはない。 学校以外の友達や家族との大切な時間だと思うから、 いっそ、 学校以外でこそケータイ禁止になっちゃえばいいんじゃないかな? って、それはいいすぎかな。 国際ジャーナル 報道通信社 現代通信社 現代画報 国際通信社 スポンサーサイト
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